今朝、子雀リンちゃんが旅立ちました。
あ、虹の橋じゃないですよ。
野生の生活に帰ったんです。
野生とは言っても、ご近所出身なので窓を開けて「いってらっしゃい」をしただけです。
旅立つ瞬間を撮ろうとカメラを構えていたのに、あっという間すぎて撮れませんでした。
一旦遠くまでスイーーっと飛んで、急に思い返したように旋回して庭に戻って…
あとは他のスズメたちにまぎれて分からなくなっちゃった。
「あっけないね」と夫。
「うん。まあ、こんなもんかな。」
実際、何度も経験してるけど、名残を惜しんで旋回して…
「さーよーなーらあー!元気でねえー!」
なんてことは、ない。
全くない。
今までの蜜月はなんだったのおー?
と言いたくなるくらいそっけないお別れ。
ヒヨドリやオナガのような少し大きな種類や肉食系の鳥の場合は野生で食べていけるようになるまでに時間がかかるので、家に餌を食べに戻ってくることはよくありますが、一度出たらもうベタベタと甘えることはなくなり、そのうち完全に野生に戻ります。
しばらくぼんやりと庭で餌をついばんでるスズメたちを眺めて、リンちゃんらしき模様の子がいるのを認めて、空になったケージの掃除を始めました。
放鳥でも看取りでも、誰かがいなくなったら即、そのケージを片付けます。
その子が居た痕跡を消します。
「そこに居ない」ということを毎回認識したくないから。
子供の頃から繰り返したお別れ。
その経験の中で気付いたのは、野生に帰るのも死ぬのも大差ない、ということ。
然るべき時に、然るべきところへ行く。
そして次のステージが始まる。
ただ、それだけ。
肉体ごと行くか、肉体を置いて逝くか。
いずれにせよ、
私の目の前からはいなくなる。
可愛らしい仕草はもう見れない。
柔らかい羽毛を触ることもできない。
小さくて暖かい体温を感じることもできない。
呼びかけても返事はない。
掃除する必要もない。
当然かもしれないけど、放鳥すると「良いこと」、死んでしまうと「悲しいこと」として周りの人には認識されます。
不思議ですね。
私にしてみたら心にぽっかりと穴が開いてひゅーひゅー風が通ってるという点では一緒だし、今でも彼らが幸せであるという事実になんら変わりないがないのです。
死が悲しいものだと決めたのは誰でしょう。
病で苦しむ姿や老いで衰えた姿を見たせいで、心に傷を負ったから?
何もしてあげられなかったことを悔やむから?
愛する対象を失って、行き場のない愛がとぐろを巻くから?
でも、それらは相手が生きていても起こることではないでしょうか?
死をどう捉えるかは自分で決めていいんです。
フクロウのプーちゃんを失った時、1年間引きこもったことがありますが、あの時の私は悲しむことが悼むことだと思い込んでいました。
自分の至らなさを責め続けるのが懺悔だと思い込み、責めて責めて責めて、自己憐憫の甘さの中毒になっていました。
また、私のカルマを肩代わりしてくれているのだとも信じて、より悲しくなっていきました。
あんな状態の私を見て、さぞかしプーちゃんは困っていたんではないでしょうか。
命を救うことができると思い上がっていたからこその罪悪感。
魂が行くと決めた時に行くなら、神様ですら引き止めることはできないのに。
何もわからず、ただ嘆いていただけでした。
いつ変化したのかは覚えていませんが、今はずいぶん楽です。
病気や死を可哀想とか悲しいとか、一面からの視点だけで捉えることがなくなったからだと思います。
たとえ悲しみに圧倒されても、笑うことを自分に許せるようになったので立ち直りも早い。
しかもシータヒーリングを始めてからは、いつでも会うことができる
かなり裏技的ですが
彼らは自分のことを可哀想などと思ってはいないし、カルマの肩代わりも大切な使命だと自負しているので、大抵はドヤ顔しています。
人間の愛に触れることは魂の成長にとってとても大切なんだとも言っていました。
先日のうずらのもんちゃんの死と今日のリンちゃんの旅立ちで、しばらくは心の穴をひゅーひゅーと風が通る音を聞くかもしれませんが、それは同時に彼女たちの与えてくれた愛に感謝する音でもあるような気がします。
アナトミーで突っ走ってたら、いつの間にか日差しが部屋の中にまで届くほど低くなって、夏の終わりを告げていました。
今年はたくさんお別れしたなあ。
これから台風シーズン。
それでもリンちゃんは立派に乗り切っていくでしょう。
彼女の生命力が強いのをよく知っているので、安心しています。
リンちゃん、がんばー