わたしは鳥が好きでたくさん飼っていますが、保護しても助からなかった子や寿命や病気で亡くなる子を看取ることも多く、ペットロスもずいぶん経験してきました。
悲しみの度合いはその時々で違うけれど、何度経験しても、心にぽっかり空いた穴というのはしぶとくて扱いに困ります。
子供の頃からたくさんのお別れをする中で、なんとかこの「穴」に向き合い、乗り越えようとしてきました。
で、わたしなりに見つけた方法、というほどのことでもないのですが、
いつの間にか儀式のようになったことがあるので、シェアしようと思います。
その前に、なんでこんなことを書こうと思ったのかというと
前回のブログでも書きましたが、うずらのてんちゃんが虹の橋を渡った時、相変わらずこの儀式をしている自分に気づいたからなんです。
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ただ、このやり方は賛否両論ありますので、一応読んでみてから判断してください。
やることはとても簡単。
ただ片付けるだけ。
ケージはもちろん、餌入れやお休み毛布、その子が生きてる間に使ったものをことごとく処分するのです。
または、きれいに洗って見えないところにしまいます。
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思い出すのも辛いという方にとっては、なんとなく分かるでしょうか。
逆に「うわぁ、無理…」
って思う方の方が多いかな?
抵抗ありますよね。
あの子が生きた証、大事な思い出なのに、目の前から消すなんて。
分かります、その気持ち。
じゃあ、なんでそんなことするのか?
答えは
「ああ、いない」
と感じる瞬間を極力減らすため。
いつもの場所にケージやお気に入りのクッションがあって、
そこに居るはずの子がいない。
そう認識した瞬間、
マインドは失ったものの大きさに圧倒され
心はもう一度傷つくのです。
わたしたちはスピリチュアルな存在です。
目の前にいる人や動物を好きであれ嫌いであれ、瞬時に繋がります。
細胞と細胞はエネルギーのやり取りをして緊密なコミュニケーションをとるのです。
たとえそれが自分の肉体の外の細胞であっても。
完全に無意識にやっていることです。
しかも、意識は無生物にも宿ります。
いつも使っていたお気に入りの毛布には、あの子の意識が宿っているのです。
いえ、正確には、意識の痕跡が残るのです。
幸せな気持ちで寝転んでいるあの子の気持ち。
それを眺めているわたしの幸せな気持ち。
残された物には、そんな思いがたくさん宿っています。
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だからこそ、捨てられないんですよね?
本当はみんなとてもサイキックだから、
その痕跡を居なくなったあの子の代わりに感じていたいんです。
可愛がっていたペットが亡くなった瞬間、その肉体の細胞からスピリットが抜けていきます。
抜け殻となった細胞からはエネルギー信号は発進されなくなります。
そうすると、飼い主の細胞は慌てます。
あれ?いないよ?
どこ?どこ?
そんな時、痕跡をたっぷり残した遺品があるとすがりつきます。
少しの間はいいかもしれませんが、
その空蝉のようなエネルギーにはもはや愛するものを失った悲しみを癒す力はありません。
それなのに毎回「いない!」を突きつけられて
今はもういない相手のエネルギーを求めて狂おしくなるんです。
いない悲しみをいつまでも感じ続けるばかりで、幸せな思い出にフォーカスすることもできず、喪失感しか残らない。
これでは、先に旅立った子はたまったもんじゃありません。
思い出してみてください。
可愛い仕草、柔らかい毛並み、甘えた声。
どれもあなたの体が心が魂がしっかりと覚えているはずです。
そして、その感覚は過去の思い出なんかではなく、今もここに存在するのです。
わたしたちの魂に刻まれた愛の体験と記憶は、どれほど転生を繰り返しても、地球での転生を終えた後でさえ、永遠に携えていくのです。
生も死も、ここでの現実全てが幻想です。
ここでの体験で得た愛だけが現実として、永遠に持ち越せるのです。
抜け殻を見ないでいることで、リアルな愛を感じやすくなります。
「いない」を見ないでいることで、幸せな思い出にフォーカスしやすくなります。
前に進むことと、「あの子」の存在を忘れてしまうことはまるで違います。
悲しみを抱えることは供養ではありません。
悲しみを解放し、
自分がどれだけ幸せだったかを知ることが供養になるのです。
もしも、あなたがペットを亡くしてまだ悲しみから抜け出せなくて、片付けることもできずにいても、これだけは忘れないでください。
彼らはどこかへ消えてしまったのではありません。
形を変えて、今も一緒にいるのです。
離れ離れになったことなど、これまでもこれからも、ないのですから。