先月、うずらのてんちゃんが虹の橋を渡りました。
3歳でした。
メスのうずらとしては大往生だと思います。
彼女が1日おきにプレゼントしてくれる卵は、美味しいパンケーキやオムレツを味わう幸せをくれました。
ケージから出ると「イエイ♡」と飛び跳ねてから走り出す後ろ姿の愛くるしさも、
他の子たちと毛布でもふもふする姿も、
思い出すたびにほっこりとした気持ちにしてくれます。
実は、昨年は何度も痛い見送りをした年で、まだ思い出すことできないくらい胸が痛むのですが、てんちゃんのように十分に生きて電池が切れるように肉体を離れていく子を見送るのとはこんなにも違うものかと、しみじみ感じます。
これは、わたしが死に方に対してジャッジメントを持っているということなんでしょう。
長生きした子には、
もう十分だね。
幸せな一生だったね。
とか。
幼い子に対しては、
もっと大きくなるとこ見たかった。
どうしてなんだろう。
とか。
本当は
どのくらい生きたとか
どんな死に方したとか
そんなことは何も関係なく
どの命も尊くて、
一瞬の光を放っているだけなのに
頭で分かっていても、
感情は遠くかけ離れたところで
散り散りになってしまうんです。
どこかのレベルで
長生きは良くて、早死にはダメだと思っているのかもしれないし、
寿命を十分生きるのが良くて、病気で死ぬのはダメと思っているのかもしれない。
誰が決めたんでしょうね。
この良し悪しを。
そして、いつの間にか取り込んで自分のものにしてしまった。
ジャッジメントというのは正しさに結びついていて、わたしたちはいつでもその正しさを証明したがっています。
だから体験を繰り返してしまうのです。
早く死んでしまったよ、かわいそう。
長生きだったよ、大往生だね。
ほら。
証明されてしまってる。
そうして終わらない証明ゲームが続いていく。
このジャッジメントを手放すのは難しいのかもしれない…
それでも
ここに気づきを持っているなら、いずれは手放していけるはず。
悲しみはちゃんと解放して、
握りしめているジャッジメントを見つめる。
自分がどうなっているのか、いつでも気づけるよう開いた状態でいれば、握りしめた手を放すこともできるでしょう。
この世の全てが、砂の一つぶでさえも、創造主の光の輝きとしての存在であることを忘れずに生きていよう。
そのうちきっと、その境地に辿り着けると信じて。