わたしは、自分のことを被害者だと思ってずっと生きていました。
しかも無自覚で。
だから以前は被害者意識の強い人を見るととてもイライラしたものです。
2年半ほど前に父が亡くなり、そして今、母の四十九日も過ぎて思うのは、両親にしてもらったことの感謝よりも、されたことへの文句ばかり言ってきたな…ということ。
親のせいでこうなったと、思ってることがいくつあったでしょう。
自分のネガティブな側面は全て親が作ったと言っても過言ではないほど、至らない自分を親のせいにしてきました。
もちろん、それをバネにいろんなことを乗り越えてこれたし、シータヒーリング®︎ を学び始めてからは、親子関係のイシューに正面から向き合ってこれたので、役に立ってくれたことも事実です。
でも、その向き合ってきたつもりというのは、本当にただの「つもり」にすぎなかったのです。
母との同居が始まった約2年前、自分のクリアリングの詰めの甘さに打ちのめされました。
そこに気づいてからは懸命にクリアリングをしました。
毎日のことなので、もう、「つもり」では済まないのです。
ようやく穏やかな心でいられるようになって、これからという時、その日は突然やってきました。
介護。
まさか自分が家で母を看取るとは思ってもいなかったし、オムツ換えなんて論外でした。
まず始めに、弱った母を見ることができない自分に衝撃を受けました。
そして、わたしをなによりも苦しめたのは「優しくない自分」だったのです。
救いを求める母の手を握ることができない。
赦しを乞う母に「もういいよ、過ぎたことだから」と言ってあげられない。
これは、頭の中のワークではない。
目の前の人を、自分を傷つけたその人を、
慈しみ、労り、世話をし、許す。
それがどんなものか、わたしは全然分かっていませんでした。
吐きそうになる、自分の身体の拒絶反応。
わたしは、被害者面しながらそれと気づかずに、ずっと自分を踏みにじってきたのです。
至らない自分、
嫌いな自分、
惨めな自分
その全てに鞭打って、鞭打って、鞭打って、励まして、更に突き飛ばして、
こんなになった自分を、初めてまともに見た気がしました。
小さなわたしは両親の間の歪みにハマり、身動き取れずに今もそこに閉じ込められていたのです。
最期の日の朝も、母はもうだいぶ酸欠で意識がもうろうとしているにもかかわらず、わたしに許してほしいと言いました。
もうこれが最後だと、どこかで分かっていたけれど、はじめて聞く話に涼しい顔などできず、
「なんてひどいことをしたの、まだたったの3つの子に!」
と、号泣して、怒って、怒って、
母はただ、すまなそうにうなだれていました。
うちの鳥たちが異様な気配に固まっているのに気づいて、わたしは洗面所に逃げこみました。
悲しかったのは、可哀想な小さなわたしのことよりも、自分の子供っぽさでした。
こんな時に優しい娘でいられなくてごめんなさい。
お兄ちゃんみたいにまっすぐ育たなくてごめんなさい。
一真くんみたいにいつも優しくできなくてごめんなさい。
これが精一杯なの。
ごめんなさい。
ひとしきり泣いてから、自分を責めるのはやめようと思いました。
これが正直な気持ちだから仕方ない。
わたしは自分に嘘をつけない。
母も正面きって怒られた方がずっと気が楽だったと思います。
そのあと、すやすやと眠る母を見ていて、子どものようだと思いました。
内側の何かが急速に緩むのがわかりました。
そして、その日の夕方、母は驚くほど穏やかに息を引き取りました。
わたしはごく自然に母の手を握り、さすりながら、その瞬間にいました。
言葉にできない思いも何もかも、重たかったものを全て持っていってくれたような、そんな空っぽな感覚。
しばらくはふわふわと漂うように、愛する人達に支えられながら日々を過ごしていました。
1人じゃない、それがどれほどありがたいことか知りました。
また、その間に新しい学びや出会いもあり、自分を見直すための時間をゆっくりとれたのは、創造主の計らいだったのだと思います。
つい先日、とてもいいお天気の日、気づいたら庭には小さな花たちが咲き乱れていました。
「お母さん、お花たちが嬉しそうだよ」
「…。」
「そうか、もういないのか。でもきっと草むしりしてるね、酸素ボンベなしで。写真も撮ってるかな。」
改めて、気づきました。
もう父も母も2人ともこの世にはいないことを。
そして、父のことや母のことを思い、つながってみました。
その時、ふと出てきた問いかけは、
わたしは、あなた達の喜びだったでしょうか?
「もちろんよ。」
と、母の声が聞こえて、父のはにかんだような笑顔が見えました。
その瞬間、わたしは小さな赤ちゃんになって、父に抱かれていました。
少し伸びたヒゲのジョリジョリとした感触。
座布団に寝転がってるわたしを見ている母。
ああ、わたしは喜びそのものだった。
誰の顔色も伺う必要はなく
愛されるために板挟みになる必要もなく
喜んでもらえなかったと諦めなくてもいい。
わたしは、誰かになる必要などなく
自分を証明しようとしなくてもいい。
許しすら必要ない。
生まれたその日のまま、ただ、自分であるだけでいい。
喜びそのものであればいい。
世界中の人たちがみんな誰かの子供で、純粋な喜びを放射しながら生まれてきている。
その瞬間に帰れたら、わたしたちの誰もが自分が喜びそのものだと思い出すだろう。
そうなったら、世界はどんなに穏やかになるだろう。
鳥かごのフタが開くような、目の前が開ける感覚。
もう自由なんだ。
両親の間でのわたしの役目は終わった。
わたしを成長させるための両親の役割も終わった。
縮こまっていた翼を思い切り伸ばして、パタパタさせて…
いいよ、出てごらん。
飛び立とう、
勇気を出して。
もくじ